吉祥寺人 : 河田悠三さん(4ひきのねこ オーナー)









■「アムステルダムの手押しオルガン」のデッサン
「移動花屋を始めようと決めたとき、まず持ち出したのが一枚のデッサン画だった」

今ここにないのが残念だけれど、という風に、河田さんはテーブルの上で両方の手のひらを広げた。まるで、見えない絵を手に取るような仕草だった。

「ほら、よく絵本なんかに手押しオルガンの挿し絵があるでしょう。そう、アムステルダムの街角なんかで。そこでオルガンを鳴らしていると、自然と人が寄ってくるじゃない。僕は、まず最初に、その絵のことを思い出したんだ」

 その絵とは、まだ花屋とは何の関係もないときに描いた絵だった。
ごく日常の一角で、楽しいこと、美しいものに人が寄り集まってくる風景。若い時分に、河田さんはそんな風景に憧れ、デッサン画を描いた。

「もともと『花屋』というより、『風景』に興味があった。町の中、人々の生活の営みの中に、アムステルダムの手押しオルガンのような図を置きたかったんだ」

河田さんは、そのデッサン画を持ち出し、移動花屋のデザインにした。河田さんのアタマの中では、移動花屋と街の風景、そこに集まってくる人々が加わって、初めて、理想の風景が出来上がった。

「だからね、いかにも花屋がありそうな公園の側とかじゃなくて、生活の中に置きたかった。お店がぽつぽつあって、人の往来がたくさんあって、のんびりしていて、思わず足を止めたくなるような場所」

その場所が、現在の中道通り。ちょうど四五六(お魚料理が美味しいダイニング)のあたりだった。毎朝、リアカーに花を積んで中道通りまで来る。近所のご婦人たちや、学生さん、会社帰りのサラリーマンなどが立ち寄って、花を買っていった。
絵本でしか見たことのない、アムステルダムの手押しオルガンのような風景が、28年前に、ここ吉祥寺でも見られたのだ。


■すべてを見せない
店内をぐるりと見回すと、さまざまな角度に花が置かれているのに気がつく。
床の上、飾り棚、店の隅っこに置いてある台の上、それに壁にまで。場所もさまざまなら、花器もさまざまで、ひとつとして同じ花瓶は見あたらない。そして、それらは活けられた花と驚くほどマッチしている。お客さんは花を買うために、床から天上まで、店内をくまなく眺めて回らなければならない。その配置は絶妙ではあるが、お世辞にも見やすいとは言い難い。私たちが普段見慣れている「一望感」というものがないのである。

「全部が見えなくてもいいんだよ」

いでたちの違う花には、それぞれの個性があり、それぞれに見合った場所があるという。河田さんは、花の性質やたたずまいを的確に捉えて、ひとつひとつに見合ったステージを作ってゆく。いちばん美しく見える場所、いちばん魅力的に見える方向を演出してゆくのだ。

「それが、花たちにとって自然な姿だと思えるから、僕は、全部が見渡せるように並べようとは思わないんだ。もちろん、好みの問題だから、これが絶対いい!というわけじゃないけれど」


それに、花がどこに置かれていようと、心がピクッと感応した花に、人は必ず吸い寄せられてゆく。いろんな方向に視線を投げかけ、じっと耳を澄ませば、花の呼ぶ声が聞こえてくるかもしれない。


■ふたつの出会いを大切にしたい
「こんな風に値札も名札も出さず、いろんな場所に花たちを置いていると、思いがけない出会い方ができるんだよ」

「出会い方を大切にしたい」という河田さんの言葉には、二つの意味が含まれている。最初は、お客さんと花との出会い。次は、お客さんと花を売るスタッフとの出会いだ。
 お客さんは、不必要な情報を削ぎ落とされた状態で、花そのものと出逢える。
「この花はきれいだけど、高いならやめておこう」とか「素敵な形の花びらをしているけど、名前の知らない花は不安だわ」などといった先入観を抱く必要がない。河田さんがしつらえた、極上のステージに咲く花を、直感的に捉えて、瞬間的に対峙できるからだ。

「だから僕はね、お客さんがお店に入ってきたその瞬間を、いちばん大切に見ている」


私たちが、ひとつの花の前で、思わず立ち止まってしまったなら、それはもう、恋に落ちたのと同じなのかもしれない。その花が、いくらで買えるのか、何という名前なのか、どれくらい日持ちするかなどと思案に暮れるのは、大切ではあるが些細なことだ。

「それでもお客さんが迷っているふうなら、初めて僕らの出番がくる。」

河田さんは、お客さんの側に立ち、「どうしましょうか」と声をかける。
花の名前を訊かれたら答えるし、手入れの方法が分からないなら、細かく教えてあげる。そうして、いろいろ見て回った挙句、まだ悩んでいるようだったら、最初に出会った花(恋に落ちた花)を、そっと後押ししてあげる。
「最初に恋に落ちた花を、忘れないで欲しいんだ」と河田さんは云う。出来上がった花束を見て、思わずほころぶお客さんの笑顔は、きっと忘れかけていた無垢な心が、ぱぁっと花開いた瞬間だろう。

 
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