吉祥寺人 : 河田悠三さん(4ひきのねこ オーナー)











東急百貨店の脇を折れ、大正通りを西に進むと、斬新な雑貨店さんや昔ながらの八百屋さんなど、新旧入りまじったお店が建ち並ぶ。
休日ともなると、狭い通りには、家族連れや若者たちで賑わいを見せる。
年季が入った魚屋さんの店先に並ぶ、香ばしい焼き魚の匂いに鼻先をひくつかせていると、鮮やかな色彩が眼に飛び込んできた。通りを隔てた反対側に、色とりどりの花たちが楽しげにアプローチを彩る。「これが花屋さん?」と、誰もが吸い寄せられるように足を運び入れたくなるのは、看板犬「ギュル」の人なつこさだけではない。店の奥深くまで、いろんな花瓶に入った花たちが、実に気持ちよさそうにくつろいでいるのだ。
誰もが口を揃えて「パリの花屋さんみたい!」と歓声をあげる、オシャレで雰囲気のある吉祥寺の老舗花屋さん。その魅力を探るべく「4ひきのねこ」に足を踏み入れた。

5月のある晴れた午後、編集長iko、カメラマンKent、ライターmamigonが蜜蜂の如くお邪魔させてもらった。


■値札も名札もない花屋
店先のレンガタイルに並んだ花たちを眺めつつ、出迎えてくれたギュルに挨拶をして店内に入る。
ありとあらゆる角度に置かれた花たちは、不思議な生命感をたたえている。
その強い気配に見とれていると、ふとあることに気付いた。「4ひきのねこ」は花を売る、いわゆるお花屋さんだが、値段や花の名前が記されたプレートがどこにも見あたらないのだ。

「お客さんが入ってきて、よく『これは売りものですか?』と訊かれるんですよ」

長い髪を後ろでひとつに束ね、目深にベレー帽をかぶり、口ひげをたくわえたオーナーの河田さんが、やわらかな声で云う。

「たとえばこの白い花」


河田さんは、テーブルの花瓶に活けられた白い花に目を落とし、こう話してくれた。
この花の学名は、キンポウゲ科ニゲラ属の一年草。普段は「ニゲラ」と呼ばれている。お店にあったのは白い花だが、ニゲラには白、ピンク、そしてブルーの花を付けるものがある。しかし、どの色の花も、花が散ると最期には黒い種を付けることから、日本名では「黒種草」と名付けられたという。
さらに面白いことに、英語名では花の時期によって名前が変わる。花を咲かせているときは、"Love in the mist"(霧の中の恋人)だが、種を付けると"Devil in the Bush(藪の中の悪魔)"になる。河田さんはニゲラの花を一本手に取り、白い花びらをめくって種になる部分を見せてくれた。それはまだ緑色だったが、確かに、悪魔の王冠(角?)のような形をしていた。

「花には、イメージやドラマがあって、それが花の名前に託されている。だから、本当のところ、花の名前はひとつとは限らないんだよ」

お客さんが気になった花を指差し、「この花は何ですか?」と訊くところから、会話が生れる。その会話が大切だと河田さんは云う。こんなふうに、花の名に託された幾つもの「物語」を聞けたなら、花のことがもっと好きになれそうだ。

「値段も気になるようだったら、ちゃんと云うから(笑)」


■「4ひきのねこ」ネーミングの由来
今年で28年目を迎える「4ひきのねこ」。
まず気になるのが、その不思議なネーミング。花屋さんなのになぜ「ねこ」(しかも4ひき!)なのだろうか?この質問をぶつけると、河田さんは古びた木の看板を持ってきてくれた。縦50センチ、幅1メートルくらいの大きな板だ。看板の四隅には、特徴をとらえた猫の顔が4つ描かれ、中央には「4ひきのねこ」と彫られてある。

「花屋を始めた当初、うちには猫が4匹いたんだよ。だから『4ひきのねこ』」


何とも明快な回答に、ほほうと顔がほころぶ。入り口のベンチで丸くなっていたギュルが、とことこと河田さんの足元にやって来て、クーンと小さく喉を鳴らした。よく見ると、店の中央にある鉄製の飾り棚にも、楽器を演奏している猫たちのオブジェが付いている。まるで、花のステージで、猫たちが楽しく音楽を奏でているようだ。
28年前、河田家で可愛がられた猫たちの記憶は、花に囲まれ、こうして今も息づいているのである。

■リアカーの移動花屋
想像力の乏しい素人の発想では、お店を構える、商売を始めるとなると、一大事のように思えてしまう。緻密な下調べや青写真の刷り直し。長い長い準備期間を経て初めて開業に至るのが、やはり一般的なプロセスだろう。そこのところ、河田さんはどうだったのだろうか。

「いやいや、花屋は、偶然やることになったんだ」


28年前、「今で云うところのフリーター」だった河田さんは、年末の忙しい時期に奥様のお友達のお店を手伝っていた。個人経営の小さな花屋さんだった。

「でもある日、友達はその花屋を閉めることになった。それは仕方のないことだけど、やっぱりこのまま辞めてしまうのは残念だな、と思ってね」

花屋を手伝いはじめて、奥さまが2ヶ月、河田さんはわずか1ヶ月の頃だった。ちょうど花屋がおもしろくなってきた矢先だった。

「旅に出たくなる時ってあるでしょう?お金はないけれど、どうしても今、行きたいって思うとき。それが本当に「旅に出る時」なんだよ。それと同じで、僕は『今、花屋をしたい』と思った。そしてリアカーの移動花屋を始めたんだ」


河田さんは奥様と一緒に、花屋で使っていた道具を引き取った。店を構える土地がなく、資金が十分でなくても、とても豊かな気持ちだったと云う。どれが売れるか、という花屋の眼ではなく、どの花が魅力的だろうか、という消費者の視点で毎朝花を仕入れた。

「今から思えば毎日そんなに大量に売れていたわけじゃないけれど、お客さんがひとつでも気に入って買ってくれると、『今日はこんなに売れた』と思えた。気持ちはリッチで優雅だったんだよね。あの頃は、ポケットいっぱいの幸せで十分(笑)」


と、河田さんは、両ポケットをたたくマネをした。
28年前、すなわち1976年に、リアカーの移動花屋を始めた。青空店舗を開く場所は、人の往来や街並みを調べた結果、中道通り(現在の「四五六」の前あたり)に決めた。ちょうどこの頃、吉祥寺には東急デパートや伊勢丹など、大型百貨店が相次いで開業した。
そして、1979年に、現在の場所、"TIGHER MAMA"の隣で「4ひきのねこ」は店を構えた。70年代半ばにスタートしたお店は、昨年、惜しまれて閉店したプチロードの"Tea Clipper"や、元祖吉祥寺カレー屋の「まめ蔵」、フランス/南イタリア料理店の"Le Bon Vivant"らがあった。

「"Tea Clipper"には、よく花を活けに行っていたよ」


河田さんは懐かしそうに云った。

 
 
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